ただ、私の気を留めたのは、次に届いた母からのLINEだった。「目は開いてるんだけど、反応がないの」目が開いているのに反応がない。この状態がどんなことを指すのかがわからなかった。私が死に瀕した生き物を看取ったのは2回。1度目は老猫のみいちゃんを看取ったとき。もう1度は狩猟仲間が鹿を撃った際に急所を外してしまい、放血して死ぬまでの数分を看取ったとき。いずれも目を見開いて、声をかけてもこちらに意識を向けようとはしなかった。祖父もあのときの彼らと同じような状態なのだろうか。みいちゃんも、鹿も、とても苦しそうに見えた。しかし、実際には死に瀕した体が苦しかっただけで、体感としてはそうでもなかったんじゃないか。そうでもなかったことを祈りたい。それにしても、私は死ぬ間際のことをあまりにも知らなすぎるのではないか。おそらくは私以外の多くの人も。死は誰にでも訪れるものなのに、どんな状態になるのかをほとんどの人が知らない。その事実に気づいた途端、死ぬことも、死を看取ることも怖くなった。同時に、少しでも怖くないように備えておきたいとも思った。私のように「お別れのとき」に戸惑いや不安を感じた人のために書かれたのが「人のさいご」だ。これは医療法人団体プラナス 桜新町アーバンクリニックが発行している本で、看取りの場で人々に寄り添い続けている在宅医療・ケア関係者が、知識と経験をもとに人のさいごに訪れる道すじを伝えてくれる。私は移動書店「月のうらがわ書店」で、この本に出会った。A5サイズの本はリーフレットのように薄く、左側ページには短いテキストが書かれ、右側にイラストが描かれている絵本のようなつくり。文字も大きくてやさしい日本語で書かれているから、心の準備さえできていれば、小学校中学年くらいの子どもからお年寄りまで読めるような仕様になっている。しかし、その内容は決して軽くはなく、一歩一歩、地面を踏み締めるように読み進めた。たとえば「いのちを閉じるとき」では「手足の色が変わっていく」「息づかいが変わっていく」などと、いわゆる危篤と言われる段階で人の体になにが起こっているのか。本人はどんな感覚でいて、周りの人はどのように対応すればよいのかが書かれている。特に私がハッとしたのは、「このとき(※お別れのとき)、救急車を呼ぶということは『救命措置は全てやってください』の意思表示になり得ます」と書かれた箇所だ。もうなにを施してもお別れしなければいけない身体だとしたら、心臓マッサージや電気ショックなどで負担をかける必要があるかどうかはよく考えなければいけない。このページを読んで初めて「そうか」と思ったが、大事な人が目の前で苦しそうにしていたら、あわてて"助け"を呼んでしまいそうな気がする。もしも家で看取ることになったとき、私は目の前の人と別れなければいけない恐怖に耐えられるだろうか。少なくとも、この本を読んでいなければ、そんな選択を迫られることすら考えなかっただろう。ちなみに、声をかけても反応がない状態になっても耳は最後まで聴こえているそうだ。私は立ち会えなかったが、居合わせた人の声は祖父の耳元まで届いていたことだろう。また、この本では、それ以前の「いのちを閉じていく自然な経過」も語られる。食事を準備したり、お風呂に入ったりといった、それまで当たり前にできていたことが"急に"できなくなる感覚が起き始めてから、食事や尿の量が減っていき、夢と現実の区別がつきにくくなって、眠っている時間が長くなる。こうした経過についても、当事者とその家族それぞれの立場を思った言葉が尽くされている。それも長年看取りを経験してきた専門家が、今まさに隣にいてくれるような、安心感のある言葉で。思えば祖父も5年前までは私と同じジムに通い、私よりも重い負荷をかけて腹筋マシーンで鍛えている姿をたびたび見かけていた。それが家のすぐ目の前のスーパーに行くのもつらくなり、それでも「今日も往復できた」とうれしそうにしていたと、仕事の合間を縫って介助に通っていた母づてに聞いたのが2年ほど前のことだったか。誰しも自分の老いや死に向き合うのは怖い。死ぬ間際まで、(私からしてみれば)つまらないことで啖呵を切り、「白黒つけるぞ!」と虫の息で豪語していた祖父にとっては特に、自分の心身の衰えは受け入れがたかったことだろう。しかし、死に少しずつ近づきつつあることを教えてくれる老いは、捉え方によっては、やさしいのかもしれないと思うことがある。そう考えると、老いが訪れるずっと前から、どんな人でも、自分のペースでお別れまでの過程を伝えてくれるこの本もまたやさしい。よく生きること(well-being)と同じくらい、よく死ぬこと(well-dying)も大切なのかもしれない。この本はそのことを教えてくれる。出典:医療法人社団プラタナス桜新町アーバンクリニック「人のさいご」(2024年6月発売)