「お父さんに先に逝ってもらわないと、迷惑かけるわよね」Tさんが母を見送ったのは2025年の春。余命宣告を受けたのは他界するほんの2か月前のことだった。Tさんは、物理的な準備も心の準備も進められないまま、最期の日を迎えることとなる。父は昔から、お酒を飲むたび「俺が死んだあとは、お母さんを頼むな」と家族に言うのが口癖だった。家のことはすべて専業主婦の母に任せきり。母もまた「お父さんに先に逝ってもらわないと、あなたたちに迷惑をかけるわよね」と冗談まじりに返していた。だからこそ母の病気が発覚した当初、Tさんは「しっかり者の母なら、残される父のためにも終活を進めてくれるはず」と思い込んでいた。また手術や抗がん剤などの治療を経て、一度は回復に向かって進んでいるかのように見えていたため、時間的、体力的な余裕もあるだろうと感じていた。しかし病気発覚から4年、再発が判明した頃には、その思いが覆されることとなる。病気は「不吉」なこと。現実に向き合おうとしない父という壁再発の報告を受け、状況を把握しようと病院への同行を申し出たTさんを待っていたのは、父の激しい拒絶だった。「治療を頑張っているお母さんの前で、そんな不吉な話をするな。お前が病院に同行したいなんて言い出したら、お母さんに病状が重くなっていると思わせてしまうだろ」母の病気が発覚して以来「順調に回復している」「いい先生だよ」という両親の言葉を信じていたTさん。しかし、急にも思える再発の報告を受け、次第に病院への疑念が膨らみ始めた。同時に、両親が冷静な判断力を失っている可能性もあると感じ始めたのだ。危機感を覚えたTさんは「やっぱり病院に同行したい」「他の病院でセカンドオピニオンを受けてはどうか」「もっと詳しく検査をしよう」と何度も提案した。しかし、父は頑なにそれを拒む。「お母さんが今の先生を信頼しているんだ。余計なことを言って不安にさせるな」父にとって、現状を変えようとする提案は「今の治療がうまくいっていない=死が近づいている」という現実を突きつけられる恐怖だったのかもしれない。父は、母の病状が進行している現実から目を背け「きっとそのうち治る」と思い込むことで、なんとか自分を保っているようにも見えた。電話で母に病状を聞こうとしても、常に隣に父の気配を感じる。母が本心を口にするのをためらう様子が受話器越しに伝わってきた。「病気が治らないと想像させることは言うなよ。元気になると言ってやってくれ」そんな父の一貫した姿勢は、一見すると献身的にも思える。しかしその裏で、Tさんは現実に対処しようとしない父に激しいもどかしさと反発を覚えていた。それでも、ここで親子の衝突を見せれば、闘病中の母を苦しめることになってしまう。Tさんは自分の感情を飲み込み、一歩引いた場所で見守るしかなかった。すべてを両親で抱え込み、子どもは踏み込めなかったなぜ、父はこれほどまでに頑ななのか。振り返れば、父はこれまでの人生で誰かに「助けてほしい」と弱音を吐いたことがなかった気がする。何かトラブルに見舞われても、自分たち夫婦だけで解決するのが父のやり方。親や親戚に頼ったり、友人に悩みを打ち明けた話は聞いたことがない。その自立心こそが、かつての父を支えたものであり、Tさんを育て上げた基盤でもある。しかし、老いと病という非常事態において、そのプライドは「子を遠ざける拒絶」へと形を変えてしまう。母もまた、そんな父の「立派な親でありたい」「子どもに迷惑をかけたくない」という願いを汲み、最後まで波風を立てないよう添い遂げることを選んだ。その結果、病院選びやセカンドオピニオンといった重要な選択は、家族で話し合う機会が失われたままに。そして突きつけられたのが「余命2か月」という、あまりにも短い猶予だったのだ。結局、母の終活は何ひとつ進んでいなかった母の病気やこれからの生活に関して、なかなか両親の関係性に踏み込めないTさん。しかし「そうは言っても、しっかり者の母のことだから密かにノートでも書いているんじゃないだろうか」という期待はあった。しかしノートどころか、書き置きのひとつすら見つからない。母がどういう最期を望んでいるのか、葬儀をはじめ、その後のことをどう考えているのかがわからない。父の生活の何を心配しているのかも聞いていない。「お母さん、ありがとう」子どもや孫からの感謝の言葉でさえも、父は「不吉な予感をさせるもの」として遮断し続けた。Tさんたちは、父が席を外すわずかな時間をぬって、母との最期のときを過ごすしかなかった。かろうじて、意識が遠のく数日前に聞き出すことができたのは、保険証券や通帳のありか、暗証番号だけ。それ以外のことは何ひとつ話せないまま、母は帰らぬ人となった。母の他界後に訪れた父の変化家族の精神的な支えだった母。そんな母がいなくなったのを境に、父子の関係に少しずつ変化が訪れる。母という防波堤を失ったことで、父は着込んできた「立派な親」という重いよろいを脱ぎ捨てざるを得なくなったのだ。 「お母さんがいないのが寂しい」と毎日のようにLINEで送ってくるようになった父は、かつては頑なに拒んでいたTさんのサポートを少しずつ受け入れ始めるようになる。父が「助けてくれ」と言えるようになったことで、Tさんの関わり方も変わっていった。生前、何度も拒絶されたことで一度は諦めかけた父との関係。絶対に踏み込むことができないと思っていた、父との間にある壁が少しずつ和らいでいることを感じている。しっかり者の母の置き土産もし母が存命のうちに、さまざまな準備を進めておいてくれたなら、心残りはもっと少なかったのだろうか。もっと楽に父との今を過ごせていたのだろうか。たしかに治療方針や葬儀などについてはもっとスムーズに進んだに違いない。しかしTさんが強引に主導権を握っていたら、父との関係性に亀裂が生じていた可能性は高い。それは母が最も望まなかったこと。Tさんが意図的に選んだ「受動的でいる」という立場は、両親なりの生き方を尊重するための苦渋の策だったのかもしれない。「早めに準備しておいたほうがいい」「家族全員で話し合っておいたほうがいい」そんなことくらい誰でもわかっている。でもそれをわかったうえで、できない事情があり、受け入れられない感情もある。いわゆる終活や生前整理に子どもが能動的に関われなかった_によって、大きなツケが生まれる可能性は高まる。Tさんは事前の準備ができなかったツケとして、今、さまざまな手続きに奔走し、父との関係においても試行錯誤を続けている。でもそれは、Tさんにとって想定の範囲内。前もって準備を進められないのなら、そのツケごと引き受けるという覚悟が必要なのかもしれない。思い描いていた人生のシナリオどおりにならなかったのは、父もTさんも同じ。決して器用だとは言い難い父と息子の歩み寄り、それこそが家族の和を何より望んでいた母からの置き土産だったのかもしれない。