「お父さんのために」独断で進んだ母の計画直子さんの家庭に、最初の波乱が訪れたのは2020年のこと。父親の食道がんが発覚。がん発覚当時、父親のがんはステージⅣ。感染症拡大の影響を受け、手術後は長期入院を余儀なくされ、医師からは「車椅子生活になるかもしれない」と告げられていた。医師の見解を受け、しっかり者の母はすぐに行動に出る。車椅子生活になるかもしれない父を想定した結果、住み慣れたマンションを引き払い、娘や孫が暮らす家の近くへ引っ越そうと考えたのだ。たまたまなのか、必然なのか。直子さん家族の住む家から数軒先の一軒家が売りに出された。すぐさま母は物件を購入。車椅子でも過ごしやすいようにと、バリアフリーにリフォームし、父の退院を待った。すべてはお父さんのためであり、自分たちが安心して老後を過ごすための、現実的で合理的な判断だった。直子さんとしても、両親が近くにいてくれることは心強い。何よりおじいちゃんおばあちゃんのことが大好きな子どもたちが喜ぶ判断だと思っていた。ところが、事態は思わぬ方向へ転がることになる。10ヶ月間の入院生活を経た父は、リフォームの済んだ新居への引っ越しを拒否したのだ。「俺は、マンションがいい。車椅子になる前提で話を進めるな」実は、父の入院中、母は父に相談することなく、自分ひとりで新居の購入、リフォームを進めていた。父の退院後の暮らしを思うからこそ、そうしておきたい。父に相談したところで反対されるという思いもあったのだろう。しかし退院したばかりの父にとって、母の判断は傲慢なものに感じられたらしい。長年暮らしたマンションを離れることは、自分のこれまでの生活をないがしろにされること。仮に不便が生じたとしても、母とふたり、これまでどおりの暮らしを選びたい。結局、新しく用意した家への引っ越しがおこなわれないまま、父と母のマンションでの暮らしが再開した。 人生の幕引きは思うように進まない父が退院し、ようやく家族が少しずつ日常を取り戻そうとしていた矢先、さらなる衝撃が走る。父の退院を見届けて安心したのか、これまでの心労がたたったのか。今度は母が体調を崩したのだ。「お腹が痛い」と言うことが増えていた母は、直子さんに病院への付き添いを依頼した。検査の結果、見つかったのは膵臓がん。判明したときには、すでに父よりも母のほうが余命が短いかもしれないという切迫した状況を迎えていた。マンションに戻りたいという父の意向を尊重し、マンションとリフォームした新居の2拠点を所有していた両親。しかし病気がわかり、医師から余命宣告を受けた母は、家族を集めてこう言った。「お母さんがおらんくなったら、お父さんの年金だけになるでしょ。そしたら、今のマンションと新居の両方を持つのは、絶対に無理よ」それまで頑なにマンションに住みたいと言い続けていた父だったが、母の病状、経済状況を考え、ようやくマンションを引き払い、新居へ引っ越すことに同意をした。「新居」という名の終の棲家一気に動き出した引っ越しの準備。しかし、すでに母の病状は深刻な段階を迎えていた。「お父さんのために」と母が整えたはずのバリアフリーの家は、皮肉にも母自身が最期を過ごすための場所となったのだ。母は、これから自分がどう過ごしたいかという意志をはっきりと持っていた。それは病気になったからではなく、以前から母の中で決めていたこと。直子さんたち家族にも、普段の生活のなかで「私は抗がん剤治療はしない」「延命措置もしない」と口にしていたという。父の手術やその後の暮らしを間近で見てきたこともあるが、母自身が30代の頃、卵巣がんを患い、しんどい思いをしてきたことに由来している。手術や抗がん剤の治療を選択しなかった母は、自分で見つけてきた緩和ケア施設で過ごすこととなった。しかし、そこでの暮らしは母の望むものではなかったようで、すぐに自宅に戻ることに。しかし、その頃には、母は自分で身の回りのことができない状態へと病状が進んでいた。直子さんの子どもたちは当時、小学生と中学生。直子さんは3人の子どもたちの育児や夫の仕事のサポートをこなしながら、数軒先にある両親の家へ行き来する生活がスタート。母の介護、そしてこれまで母が担っていた父のサポートにあたることとなった。そんななかで、母にはどうしても叶えたいことがあった。「孫の七五三を一緒にお祝いして、写真を撮りたい」日に日に体力は落ちていたが、母はその日を目指して、命の灯火を燃やし続けているかのように見えた。医者から「そろそろ」という言葉を聞いた直子さんは、七五三の日取りを当初の予定より前倒しに。無事に七五三の日を迎え、家族揃っての写真を残すことができた。母はどこか安堵したような表情を浮かべていたという。自分の願いを叶えたことを合図にするかのように、その後、急速に体調が悪化、帰らぬ人となった。できないことよりも、できることに目を向ける母が他界したあと、新居に残されたのは父ひとり。かつてあれほど「マンションがいい」と頑なだった父だったが、母が最期まで過ごしたその家で、次第に自分らしい日々を送り始める。娘家族のすぐそばで暮らせるのは、安心以外の何ものでもなかっただろう。手術後、車椅子生活になるかもしれないと言われていた父だが、ふたを開けてみれば、身の回りのことは自分でできる状態で暮らしを続けていた。母亡き後、寂しさに耽ることはあったものの、突然「ハンモックを買いたい」と言い出したり、「ドローンの免許を取ってバイトにしようかな」と話したり、暮らしを楽しむ様子も見受けられた。娘からしたら「余命がわずかかもしれないのに、ハンモックやドローンなんて……」と思う気持ちもあったという。でも「病気である自分」に飲み込まれることなく、父は自分を生きているのだ。そう思うと、父の突拍子もない望みが面白いものに思えてきた。遠出ができない。食事もままならない。トイレに行くだけで、何十分も時間がかかる。その様子を「できないからサポートしてあげなければ」と思えば、父は「介護される側」の人になってしまう。もちろん父がそれを望むのなら、直子さんをはじめ、家族や公的サービス、医療的な支援を受けることもできたはずだ。でも直子さんは父から依頼されるまで、自ら「あれをしてあげなければ」と前のめりに動くことはしなかったという。親の「今」に心を寄せる介護前触れもなくやってきた両親の介護、そして看取り。40代を迎えたばかりの直子さんにとっては、それらの出来事は簡単なことではなかったはず。「両親を看取った後、後悔していることはないか」と直子さんに尋ねると、彼女は「やり残したことはない」と潔く答えた。「親がやりたいと言っていること、やりたいと思っているだろうことに『いいよ』と応えてきただけなんです。食べたくないなら食べなくていいし、不便でも本人がいいならそれでいい。私はただ、本人が望む環境を整えることに集中しただけ」私たちが介護に後悔を感じるのは、「もっと良い方法があったのではないか」と思ってしまうから。つまりそれは、親のためというよりも、子どもが納得して介護や看取りを進めたかったということなのかもしれない。直子さんのように、親が今この瞬間に何に心を動かしているかを見つめ、それを尊重すること。それだけで、やるべきことは自ずとシンプルになる。おそらく私たち子どもが望むのは、親が自分らしく生き切った姿を見届けることではないだろうか。直子さんは、こうも話す。「私たちって、意外と『できるのにやっていないこと』って多いんだなと気づきました。だから今は、自分の人生も『いつか』ではなく『今』やりたいことをひとつずつ形にしていきたいと思っています」人生は、決して予定通りには進まない。娘家族の近くで住みたいと新居購入に踏み切った母、逆に住み慣れたマンションにこだわった父。意見の異なる両親に挟まれ、どう選択するのがよいかわからないと戸惑ったこともあるだろう。しかし、母が整えたバリアフリーの家は、結局は、母自身の最期の場所となった。七五三を前倒しにしたことで、母は孫の晴れ姿を見届けることができた。そして父は、マンションを離れたくないと言いながらも、最終的に娘家族のすぐそばで最期を迎えることができた。誰かが完璧に計画したわけでも、すべてを見通していたわけでもない。それでも、必要なものが必要なタイミングで揃っている。それが直子さんが両親の生き方から学んだこと。予期せぬ未来に不安を感じ動けなくなるよりも、その時々の親の望みに身を委ねてみること。立派な設備や完璧な計画よりも、「親が自分らしくいられたと笑って幕を閉じられること」それこそが、見送る側にとっても、見送られる側にとっても、最も幸せなことなのかもしれない。